僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

実用性を欠いた写真集~村上恵梨編~

 二十代後半から三十年代前半にかけて、敷布団の下にはいつも彩文館出版のグラビアアイドル写真集が待機してあるほど、同社なくして僕の自慰用素材は語れない。思えば二〇〇一年三月の小倉優子のデビュー作「恋しくて優しくて」から、磯山さやか石井めぐる滝ありさと各年の最多自慰回数を記録したオナペットの作品を経て、〇七年九月の鮎川のどかの「多感期」までの約六年半、同社の写真集は僕の人生の中で最も性欲が旺盛だった時期を支えてくれた。


 そんな彩文館出版でも、僕にとっては実用性に欠けた作品を手にしたことがある。以前紹介した永岡真実の「真夏の実」がそうだったし、今回取り上げる村上恵梨の「innocence」(〇三年二月発表)も、当初の期待と中身とのギャップに激しく落胆した作品だ。故人の作品をけなすのは気が引けるが、カメラマンとプロデューサーが村上という素材を生かしきれなかったことに、今でも「金返せ!」と思い出される一冊だ。


 村上は二十歳を過ぎてデビュー。僕の自慰用素材の対象年齢から外れるが、美少女の面影を残す表情と成熟した肢体に性欲を発散せずにはいられなくなり、写真集の発売を心待ちにしていた。当時はパソコンを持っていなかったので、週刊誌や漫画誌に掲載される数ページのグラビアから写真集の発売時期を知ったり、金曜日の夜になるとロードサイドのセルビデオ店へ車を走らせ、新刊が発売されているかどうかをチェックしたりしていた。「innocence」もその中の一冊だ。


 村上の全身を斜め横から撮った表紙は、布面積の小さい白ビキニのブラからはみ出さんばかりの乳房のふくらみが強調され、僕は迷わず購入した。だが、ページをめくっていくと、周囲の背景どころか村上の全身もぼかしたように被写体に収まっているのが延々と続き、実用性とは程遠い仕上がりに下半身を露出して自慰の途中だったものの、どうしていいかわからなくなった。全編通じて性的興奮を最高潮に導かせてくれるページも見当たらなかった。


 結局、性的想像力を存分に働かせて一回は射精したのだろうか。三千円近く払ってまで買ったので、何とか元を取ろうと頑張ったが、あまりにも実用性を欠いた中身へのショックは大きく、すぐに古書店送りとなった。グラビアアイドルの写真集でありながら、消費者に自慰をさせてたまるかという拒否の姿勢がもろに伝わってきた作品として、僕がこれまで買ってきた数多ある写真集の中でも、永遠に記憶に残る一冊だろう。


 有名女優を多数輩出した大手繊維メーカーのマスコットガールに選ばれ、村上もグラビアアイドルから女優への道を歩もうとしたが、病によって夢半ばにしてこの世を去った。芸能界ではメジャー未満で終わってしまい、一般的な知名度は低かったが、僕は「innocence」で途方に暮れた苦い思い出をいつまでも忘れないだろう。

忘れていたオナペット~鈴木あきえ編~

 僕の年間自慰回数が最多を記録した二〇〇四年と翌〇五年は、ひとえに石井めぐる滝ありさという終生忘れ得ないオナペットと、彼女たちの写真集を発行した彩文館出版の功績が大きい。自慰用の媒体が写真集から動画に替わり、それに伴う性的想像力の衰えと加齢によって、当時狂ったように自慰に耽った「Be―New―」と「ありんこ」が、今日においても素材になり得るかどうかは正直言って難しいが、三十代前半の僕の性欲を支えてくれた金字塔であることに変わりはない。


 石井と滝から大きく引き離された二番手グループは、野崎亜里沙中村知世などこれまで何人か紹介してきたが、今になってまだ漏れがあったことに気づいた。先に名前を挙げると、鈴木あきえだ。写真集とイメージビデオ(IV)を所持していたにもかかわらず、またも「忘れていたオナペット」として後追いで取り上げるとは、本当に自分が嫌になってしまう。この場を借りて本人に深く謝罪したい。


 鈴木は〇五年一月に、彩文館出版から写真集「Cheers」を発表。高校生世代で、それなりの美少女度と体躯を有していたので、僕の性的嗜好とシンクロした。過度な露出や演出があるわけでもなく、せいぜいビキニ姿を披露するだけだが、ビキニ越しに見える豊かな胸のふくらみは僕の性的想像力をたくましく働かせ、自慰を捗らせた。たとえ完璧な美少女でなくても、健康的なエロチシズムがいかんなく発揮されていれば満足だった。


 その後、僕の自慰用素材はIVへ移行したが、鈴木の作品も映像だけとなり、セルビデオ店で何度か商品を手に取ってはみたものの、当時は露出が極端に少なかったり、芝居仕立てだったりとはずれ作品をつかまされることも少なくなかったので、購入を躊躇った。それでもスクール水着姿のジャケット写真に惹かれて「目があうじかん」というタイトル名のIVを買った覚えがある。しかし、これも鈴木には大変失礼だが、自慰用素材として用いたわりには、今でも記憶に残っているほど印象的なチャプターがない。


 鈴木は「加齢→着エロ」というグラビアアイドルの定番路線を選ぶまでもなく、タレントとして成功した。地上波の人気情報番組のリポーターを長年務めたほか、結婚後はNHKの育児情報番組の司会者に起用されるなど、二人の子を持つ“ママタレ”としてリア充感あふれる芸能人生を歩んでいる。それは鈴木のコミュニケーション能力の高さにほかならず、地頭のよさが芸能界でも生かされた形だ。


 人前で水着姿になり、自慰用素材として消費されるグラビアアイドルの仕事など、檀蜜のような変わり者でもないかぎり、誰もがやりたくないはずだ。かといって、女優やタレントになるための能力やコネクション、それに運がなければ、グラビアを続けていくか、人知れず芸能界から去っていくしかない。しかし、芸能界だけが人生のすべてではなく、一般人としてひたむきに生きていく選択もある。鈴木が今後も引き続き活躍していくのを祈念するとともに、今まで僕の股間を熱くさせてくれた 元芸能人に対しても、ともに元オナペットとしてどこかで幸せに生きているのを願うばかりだ。

英知出版への十五年越しの謝辞②

 前回の記事で、「すッぴん」がアイドル雑誌としてのクオリティを保てず成人誌になり果ててしまったのは、「クリーム」に代表される「お菓子系」雑誌や大手出版社のアイドル雑誌との競合によるものだとの月並みな持論を展開した。のちに女優やタレントとしてブレイクした少女を巻頭に起用するほど先見の明があったにもかかわらず、どうして坂道を転げ落ちるようにコンテンツが劣化してしまったのか。一九九九年の児童ポルノ法施行だけが原因ではないと思う。


 「すッぴん」は「BOMB」や「Up to boy」のようなすでにメジャーデビューしているアイドルではなく、どこの誰ともわからぬ無名の少女の水着姿を披露した。彼女たちを巻頭で起用しながら、表紙に年齢をはっきり記して高校生世代を自慰対象とする消費者に訴求。また、AV女優のヌードグラビアも掲載することでAVとのメディアミックスを図ったのが、ほかのアイドル誌との決定的な違いで、後々まで成人誌と色眼鏡で見られがちだった。


 「すッぴん」は、高校生だった僕でも書店で買えたので成人誌ではない。しかし、正統派のアイドル雑誌でもなく、その曖昧なポジションがほかの雑誌に埋もれることなく、僕のような性癖の読者に支持された。正統派を目指しても大手にかなうわけがなく、成人誌は「デラべっぴん」など自社のフォーマットが確立していたので、その一部を拝借しながら無名の少女を巻頭に抜擢し、発行部数を増やしていった。


 九〇年代後半に「クリーム」を代表とするお菓子系雑誌が「すッぴん」の読者層を奪っていった際に、共倒れを覚悟でそれらと同じ土俵に立てていたら、もっと違った局面になっていたかもしれない。「すッぴん」はメジャーアイドルやヌード(むろん十八歳以上)のグラビアも掲載されていて、総合的なアイドル雑誌としての色合いが濃かった。しかし、巻頭を飾る高校生世代のグラビアが、年を追うにつれてお菓子系雑誌よりも美少女度や演出の劣化が進んでいたのは否めず、それでいて「クリーム」よりも約百円高いとあっては、読者がお菓子系に流れるのも時間の問題だった。


 児ポ法施行前の一、二年はお菓子系雑誌に掲載されたことがあるモデルを起用し、共存路線を試みたが、その一方で優香や酒井若菜ら自社が発行する写真集の販促の一環として、彼女たちのグラビアを誌面で展開した。それはそれで英知出版の業績に寄与したはずだが、当時の僕は三千円近くもする写真集を買うほどの経済的余裕がなかったので、酒井のデビュー作「神様の繭」は欲しくても買えなかった。その欲求不満を解消すべく、千円でお釣りが返ってくるお菓子系雑誌の別冊ムックで性欲を発散するしかなかった。


 のちにメジャーになり、“お宝画像”としてバックナンバーが高値で流通するほど新人の発掘に長けていても、「すッぴん」の巻頭モデルを自社で写真集が出せるまで面倒を見るシステムは九〇年代前半まではなかった。優香や酒井でそのノウハウを確立できたのなら、彩文館出版のような現在地にいたかもしれないのに、倒産によって途絶えてしまった。英知出版の内部事情を抜きにして僕なりの考察をまとめてみたが、やはりお菓子系の黎明期のうちに対抗策を講じなかったことと、ピーク時でも市場自体が共存できると目測を誤っていたことが、“初恋体験雑誌”の寿命を縮めたではないだろうか。

英知出版への十五年越しの謝辞①

 僕が英知出版という社名を知ったのは、中学二年の冬に「デラべっぴん」を買ったときだ。書店員に訝しがられながらも、生まれて初めてポルノグラフィを手に入れ、自慰用素材とした。確か牧本千幸が巻頭だったと思う。当時は「英知」という言葉の意味などわからず、エッチな雑誌を発行しているからそういう社名なんだな、という稚拙な発想で十代後半から二十代後半にかけて、同社とその系列会社が手がける出版・映像媒体のお世話になった。


 英知出版は二〇〇七年四月に倒産。九六年に所得隠しが発覚して以来、三度にわたって親会社が変わるほど経営が不安定になり、末期になると全盛期を支えていた「ビデオボーイ」などの主要雑誌をも手放してしまった。倒産から約十五年経った今、幾多の自慰用素材を供給してくれた同社に感謝の意を伝えたいとともに、あらためて一消費者として倒産に至るまでの経緯を振り返っていきたい。


 僕は高校生の頃から「すッぴん」を愛読し、自慰用素材に用いてきた。素人っぽさを残す高校生世代の少女の水着姿を堪能できる雑誌として、またメジャーになりきれないアイドルの寄せ集めとして、僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。表紙には登場モデルの氏名と年齢が明記され、それらのほとんどが十八歳以下だったことは、今日まで続く僕の自慰用素材の対象年齢として刻み込まれた。


 しかし、九〇年代に隆盛を極めた「お菓子系」との競合に巻き込まれたことが、「すッぴん」の相対的地位を下落させた。僕のようにお菓子系に流れた読者もいるはずで、正統派のグラビアとブルセラ路線がごちゃまぜのどっちつかず感が、「クリーム」の台頭を許してしまった。麻生久美子さとう珠緒ら女優やタレントを目指すモデルのスタートラインという役割を果たしてきたが、先鋭化する読者のニーズに応えようとはしなかった。


 児童ポルノ法の施行を経て「すッぴん」は翌〇〇年に誌名を変えたが、高校生世代のモデルで占められた往時の面影は微塵もなく、成人誌と変わらぬコンテンツになり果ててしまった。メジャーへの橋渡しというとニッチな存在意義も、芸能プロダクションがまだ無名の少女をグラビアアイドルとしてデビューさせ、彩文館出版などが写真集を手がけるようになると、「すッぴん」で水着姿を披露する必然性は薄れた。高校生世代の少女の水着姿を堪能できる媒体の第一人者だったのに、お菓子系の台頭とその後のグラビアアイドルの間口拡大で一気に後塵を拝してしまった。


 英知出版倒産の原因を、九〇年代における「すッぴん」の栄枯盛衰に絞って考察してみたが、裏表紙に大手メーカーの広告が付いていたほど成人誌としてのステイタスが高かった同社にとって、ゼロから立ち上げたお菓子系の突き上げによって消耗戦を引き起こし、読者の分散を招いてしまった。かといって、「BOMB」などのように児ポ法施行後もアイドル雑誌としてのクオリティを保つことができなかったのは、「すッぴん」も所詮、成人誌なのだという世間の冷ややかな見方に屈してしまったのと、大手と中小という出版社間の縮められようがない経営体力によるものではないだろうか。

お菓子系最後のオナペット

 #KuToo運動で知られるフェミニスト石川優実が、お菓子系雑誌「クリーム」の常連として人気を博していたことは有名だが、その頃の僕はすでにお菓子系とは距離を置いていた。二〇〇〇年以降、新興の芸能プロダクションがグラビアアイドル市場に相次いで参入したことで、本来ならお菓子系の枠に留まるはずの高校生世代の少女が写真集やイメージビデオ(IV)を発表できるようになり、僕もそれらを自慰用素材に用いたことで、お菓子系への優先順位は年を追うごとに下がっていった。


 僕の中で、お菓子系アイドルの出世頭といえば福愛美の名前がすぐに挙がる。高校生世代を通じて活動し、写真集も三作品発表した。石川や木嶋のりこ(現・小原徳子)のように十八歳を過ぎてからの“なんちゃって”お菓子系ではなく、児童ポルノ法施行による自主規制が過ぎてから適齢期を迎えたという時世にも恵まれた。


 お菓子系アイドルの最後のオナペットは誰かと問われると、〇四年に十六歳でデビューした手塚りえだろう。手塚は写真集を二作品発表し、僕はどちらも入手するほど彼女を自慰用素材として重宝していたにもかかわらず、〇四年と翌〇五年を代表するオナペットの一人として紹介するのを失念していた。痛恨の極みであり、この場を借りて本人に謝罪したい。


 手塚はお菓子系のど真ん中を行く少女だった。いい意味で言うと、九〇年代から連綿と続いてきたお菓子系の演出に完璧にマッチしているほどの王道的存在であり、悪い意味で言うなら、お菓子系アイドルのままで終わってしまう。お菓子系でトップを張った少女の誰もがメジャーアイドルになれなかったように、手塚も二十歳を過ぎてからの芸能活動は知られていない。


 それでも、お菓子系の定番とも言える制服、体操服(ブルマー)、スクール水着の“三点セット”を、そこらへんにいるような少女が違和感なく着こなしてくれたうえに、写真集というじっくり堪能できる形で発表してくれた功績は大きい。グラビアアイドルを自慰用素材とする誰もが、メジャーデビューで非の打ちどころのない洗練されたモデルを求めているわけでもなく、僕のように素人っぽさを残したまま、何もわからず精一杯撮影に臨んでいる少女を求める消費者もいるはずだ。


 石川のように、僕が手塚より後のお菓子系アイドルを名前しか知らないのは、高校生世代の少女が芸能プロダクションに所属して写真集やIVを発表できるようになり、そのコンテンツにおいてモデルにスクール水着を着させるなどお菓子系のテイストが取り入れられているからだ。お菓子系を下に見ていたわけでもないが、その頃の「クリーム」は九〇年代後半の全盛期に比べて明らかに不健全なのが表紙からも伝わってきて、成人雑誌色が強くなってきたことも、お菓子系から遠ざかっていった原因だ。


 そんな時代背景において、石川の芸能人生のスタートがお菓子系というのは、よく言えば写真集もIVも買えないほど金銭的余裕のない男性諸氏の性欲を満たしてくれたヒロインであり、悪く言えば「クリーム」のお下劣路線を助長し、僕のようなオールドファンにそっぽを向かせた一人だろう。

古き良きお菓子系写真集

 お菓子系雑誌の代表格である「クリーム」は、一九九四年からほぼ一年おきに別冊の「クリーム写真集」を発刊していた。写真集といっても二、三千円もするほど高価なものではなく、千円でおつりが帰ってきて、しかも本誌に登場した複数のモデルによる総集編というコストパフォーマンスに優れた自慰用素材だった。僕がお菓子系というジャンルを知ったのも、書店でこのムックを手に取ったからで、それ以来お菓子系雑誌とは切っても切れない関係になった。


 九九年十一月の児童ポルノ法施行直前まで、お菓子系はクリームだけでなく、いくつかの競合誌があるほど僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。そこそこ人気があるモデルは単体での写真集を発表し、お菓子系がグラビアアイドルのサブカテゴリ―として市場で認知されるようになったが、児ポ法施行で十八歳未満のモデルの掲載を見合わせるようになると、彼女たちは活動の場を失ってしまった。


 児ポ法施行前に発表されたお菓子系アイドルの写真集として、本ブログでは以前、小野田優美の「夏色のスケッチ」を挙げたが、今回は菊池りえの「M.U.K.U」を紹介したい。今振り返ると、九八年十月に発表された同作品は、もしかしたら「夏色のスケッチ」よりも実用的で、自慰回数も多かったのではないか。ヤフオク!に出品されているサンプル画像を見ながら、自慰に耽っていた当時の記憶がよみがえる。


 「M.U.K.U」は、心交社の「美少女アルバム」シリーズの二作目として発売。表紙には「ゆらぎの中の16才」というサブタイトルがあしらわれ、制服姿に当時流行りのルーズソックスとブルセラチックな表紙写真に、一般書店で買うのは気が引けるが、幸いにも僕はそれをセルビデオ店で入手した。


 心交社の作品といえば、ジュニアアイドルの過度な露出が売りのイメージビデオがすぐに思い浮かぶが、「M.U.K.U」にはまだその片鱗が見られない。ただ、お菓子系の枠にとらわれない衣装や見せ方を菊池に求め、その大胆な試みに僕の股間を幾度となく熱くさせた。下着姿になったり、Tバックを履かせたりするようなわかりやすい着エロではなく、制服姿でもスカートの奥が見えそうで見えないという絶妙なバランスに、素人臭さが抜けきれない菊池の表情が合わさる。メジャーアイドルの写真集では絶対に味わえない醍醐味だ。


 さらに、海賊やボディコン、チアリーダーを模したコスプレも披露。いずれも体のラインが強調され、下半身が見えそうで見えないというお菓子系のグラビアにはない攻めた演出で、かといって着エロのような露骨さもなく、性的想像力を養うにはうってつけの作品だと思う。惜しむらくは、菊池がもっと遅く生まれていたら、児ポ法施行による自主規制の影響を受けず、福愛美のようにお菓子系アイドルとして息の長い活動ができたのではないだろうか。

児童ポルノ法施行直後のお菓子系

 一九九九年十一月に児童ポルノ法が施行され、「クリーム」をはじめとするお菓子系雑誌は一時壊滅的ダメージを負った。その頃の僕は、自宅から電車で往復約三時間半かけて県外の支社へ通っていたのに加え、本社の上司からは何の業務指示も与えられず、入社三年目でありながら半ば追い出し状態だった。その憂さ晴らしのために、安月給にもかかわらず週一回のペースで会社近くのファッションヘルスに通い、終電に間に合わなければオフィスの床に寝そべるか、たまにもらえるサウナ併設のカプセルホテルの無料券で一夜をしのいだ。


 児ポ法施行直後、僕の手元にあったお菓子系雑誌で今でも記憶に残っているのが「ラッキークレープ」の十二月号だ。表紙を飾った豊谷小百合は撮影時すでに十八歳を過ぎていて、“なんちゃって”お菓子系の範疇だが、水分を吸収してぴたっと体に張りついた赤いスクール水着姿と制服姿、そこらへんにいそうなロリータチックな佇まいという数ページのグラビアだけで、幾度となく勃起と射精を繰り返した。


 当該号はほかにも、五十嵐結花久保亜沙香、大森亜由子らお菓子系ファンなら誰でも知っているモデルが勢ぞろいだが、いずれも豊谷と同様、高校生世代ではないのが児ポ法を見据えてのキャスティングだ。僕は五十嵐がずっと気になっていて、彼女の写真集が欲しくてたまらなかったが、当時は経済的余裕のなさからそれに支出を回せなかったのと、セルビデオ店でグラビアアイドルの写真を売っておらず、一般書店で買うのが気恥ずかしかったこともあってか、かなり後になって中古で手に入れたのを覚えている。


 ラッキークレープは当該号をもって休刊。児ポ法の影響をもろに受けた格好だが、その頃の僕は高校生世代にとりたてて拘りはなく、美少女で体躯がよければ十八歳以上でも自慰対象とみなした。「すッぴん」九八年十一月号の表紙と巻頭グラビアを飾った中島礼香が気になり、のちに写真集「moment」を躊躇なく手に入れたが、それを用いての自慰回数は多くなかったと思う。当時はまだ週末に一日四、五回の固め打ちをするほど性欲が旺盛ではなかったし、まだ社会人三年目ゆえに自慰に明け暮れるほど自身に余裕がなかったからだ。


 また、中島の写真集がお菓子系雑誌に比べて実用性に劣っていたのも、今日において彼女がオナペットだったと振り返られないゆえんだ。数十ページにわたる中島の水着姿よりも、豊谷の数ページのグラビアのほうがずっと記憶に残っているのは、僕がお菓子系雑誌の単純な演出にまんまとはまってしまったからで、スタンダードなグラビアアイドルとは相容れられなかったのかもしれない。


 九〇年代末期の僕の自慰用素材は、お菓子系を中心に回っていた。お菓子系のルーツを辿ると、英知出版の「大海賊」や「すッぴん」で、お菓子系はそれらのテイストをさらに凝縮させた形で、ブルセラオンリーの一点突破で高校生世代の素人モデルを発掘し、僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。僕が今、オークションサイトで中島のデビュー時の作品を手に入れようとするなら、やはり「moment」よりも「すッぴん」だろう。