僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

フォーエバー「お菓子系」横澤りか編

 ブラック企業に入社した僕は、激務の合間を縫ってはロードサイドのセルビデオ店に足を運び、「お菓子系」の雑誌を買って性欲を放出した。素人臭の抜けない十八歳以下の少女が、スクール水着と下着を模したビキニをまとって画一的なポーズをしてくれるだけで、僕の股間は熱くなった。その頃は彼女たちと同年代の優香がデビューしていたが、僕は今まで一度も素材に用いたことがない。
 社会人一年目が過ぎようとした頃、九八年四月号の「クリーム」で横澤りかのグラビアが掲載された。横澤はぽっちゃりした体躯で、素材としては申し分なかったが、その号は巻末の倉上涼子の陰部が見えそうで見えない学生服姿と立派な太ももにすっかり性的想像力がかき立てられ、横澤は後回し的存在だった。
 横澤が衝撃的だったのは、同年六月号の「クリーム」巻頭だ。体操着越しに伝わる胸の立体感とスクール水着、ピンクのビキニ。たったそれだけの演出にもかかわらず、僕は満足だった。どんなに素材がよくても、学生服姿や体操服姿で射精に導くなど今の僕には到底無理だが、あの頃は横澤の顔と太ももを眺めるだけで、たとえ水着のページが少なくても何回でも射精できた。肌の露出が抑えられていた分、想像力を働かせながら性的興奮を高めていった。
 横澤は「クリーム」以外の競合誌でもグラビアを掛け持ちし、その年の夏に刊行された「クリーム写真集」のような総集編でも、グラビアアイドルに引けを取らないビキニ姿を見せてくれた。横澤のモデル活動はそこまでで、秋以降彼女のグラビアを見ることはなかった。読者の人気がなかったから仕事がなくなったのか、それとも読者に自慰素材として用いられるのに耐えられなかったのか。いずれにせよ、「お菓子系」モデルの活動期間は短く、次から次へと新しいモデルを供給してくれるのに慣れていたから、横澤への性的興味も徐々に薄らいでいった。
 僕は「お菓子系」と並行して週刊誌のグラビアも素材に用いていたが、芸能プロダクションが当時売り込もうとしていたモデルのほとんどは印象に残っていないのに対し、彼女たちよりもずっとマイナーで素人同然のモデルの顔と名前は、今でもまだ鮮明に覚えている。ブルセラというニッチな市場を開拓しなければ生き残れない中小出版社の経営戦略に、アンチメジャーの僕は共感を覚え、全盛期をともに歩んできた。
 しかし、僕と「お菓子系」との蜜月関係は、翌年の児童ポルノ法施行で絶たれてしまう。施行直後に刊行された「でかクリーム2」は、すべてのモデルが十八歳以上で、彼女たちが体操服を着ようと、スクール水着姿になろうと、何のリアリティも感じず、それでも買った分の元を取ろうと自慰に勤しんだのは、散々お世話になった「お菓子系」への義理を果たしたかったのかもしれない。