僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

芸能界への執着は強くても……

 十代の頃に英知出版の出版物を自慰の素材として用いていたのがきっかけで、僕の歴代オナペットはメジャーになりきれないのが多数を占めた。北米のプロ野球リーグにたとえると、3Aや2Aクラスの素材で、彼女たちは一九九〇年代までは英知出版と「お菓子系」に活動領域がかぎられていたが、高校生世代のグラビアがビジネスになると睨んだ芸能プロダクションと出版社が次々とモデルを発掘し、各種媒体への露出を増やしていった。
 僕は大手出版社の販促に乗せられる形で、〇二年に週刊誌や漫画誌のグラビアでブレークしたアイドルの写真集に手を出したことがある。写真集ではなくムックだったはずだが、マイナーな素材を好む僕の主義に反する形で、市川由衣仲根かすみのを買ってしまった。市川はともかく、仲根を素材に用いたことを打ち明けるのはどういうわけか気恥ずかしさが先立つ。いつまでも若かりし頃の思い出として記憶に留めておきたい自慰もあれば、黒歴史として消し去りたい自慰もある。仲根はまさに後者と言えよう。
 さて、〇五年もマイナーからデビューした高校生世代のグラビアアイドルが僕の股間を慰めてくれたが、まずは疋田紗也を挙げたい。疋田はこの年だけで写真集を三作品発表し、僕はいずれも手にするほど彼女の虜になったが、それでも年間最多のオナペットではなかったし、この稿を書き進めていくうちにふと思い出したのだから、この場を借りて本人に謝罪したい。
 むろん、疋田の容姿はしっかり覚えている。典型的なロリ巨乳の持ち主で、僕の中で前年の石井めぐるの後継者としての期待も高まったが、石井よりも美少女度が劣るのは否めず、写真集を買い揃えたわりには自慰回数は伸び悩んだ。翌年、インターネット上で疋田の性に対する奔放さを露骨に表す本人の書き込みが話題になったが、そのときすでに彼女に対する性的興味は失せていた。
 写真集を三作品も購入したのに、そのオナペットに対する記憶が薄らいでいたのは明らかに僕の過失だが、その言い訳としては当時、素材をとっかえひっかえ用いるほど僕の性欲が強かったのと、疋田に美少女度が欠けていたからだろう。ポスト石井を期待しても、僕の中では彼女での自慰はやり尽くした感があり、それをまだ垢抜けていない疋田に求めても、しょせん二番煎じにすぎなかった。
 疋田は一四年までグラビア作品を発表し続けていたから、芸能界への執着は強かったようだが、磯山さやか川村ゆきえのようにメジャーな舞台に呼ばれることなく、霊感の強さというニッチなキャラクターも窮めることができなかった。グラビアという同じスタートラインなのに差がついてしまうのは、所属事務所と各種メディアの力関係もあるが、やはり本人にもコミュニケーション能力や頭の回転の速さなどが求められるのは言うまでもない。残念ながら、疋田が磯山らに比べてそれらの力量に欠けていたのだろう。

実用性を欠いた写真集~篠原直美編~

 僕がグラビアアイドルの写真集を集中的に買い求めていたのは、二〇〇〇年代にほぼ集約されるが、オナぺットとして何十回も繰り返し使わせてもらった作品もあれば、ほんの数回きりで古書店行きになった作品もある。雑誌などで事前に情報を知り、その素材に対して性的興味が湧いたはずなのに、三千円近くも投じて買った写真集をぺらぺらとめくった途端、実用性を欠いた構成にがっかりした経験も少なくない。
 九〇年代から始まった漫画誌のオーディションで、酒井若菜と同じく準グランプリでデビューした篠原直美の写真集「NOW」も、その一つに挙げられる。僕の性癖なら、ロリ巨乳系の酒井に対して股間が膨らむはずなのに、奇しくも今日まで一度も彼女を素材に用いたことがない。篠原の写真集を買おうと思ったのは、その漫画誌のグラビアのスクール水着姿が初々しくてたまらなかったからだ。
 篠原の写真集が発表された九七年は、まだ社会人一年目でまともに休日が取れない日々が続いていた。しかも安月給だったので、自慰用の素材はもっぱら「お菓子系」雑誌か、漫画誌や週刊誌のグラビアにかぎられ、「NOW」を買うのも多少の逡巡を経てのことだった。行きつけのセルビデオ店は写真集を取り扱っていなかったので、自宅から少し離れた宮脇書店で買ったのを今でもはっきり覚えている。
 自室に戻り、さっそく自慰を始めようと写真集を開いてみると、僕が期待していた構成ではないことに戸惑いを覚え、しかし大枚をはたいたのだから所期の目的だけは達成しなければならないと、いつもより性的妄想をたくましく働かせながら射精に導いた。それから五回も使わなかっただろう。どう処分したのかも覚えてなく、今となっては「篠原直美」という素材の名前しか覚えていない。
 普段使いが「お菓子系」雑誌という実用性に富んだ素材だったので、正統派アイドルとして売り出そうとした篠原の写真集では股間が反応しづらかったのかもしれない。「ヤフオク!」に出品されている写真集のサンプル画像をあらためて見返すと、胸の膨らみが目立つ黄色のワンピース姿にもかかわらず、西瓜を汚く食べているショットに当時げんなりしたのを思い出す。帯には「水着がいっぱい」と煽っていながらも、篠原自身に性的アピールが足りないから全体的に中途半端だ。
 同じ出発点でありながらも、酒井はグラビアで認知度を高めたうえで女優としての仕事も増やしていったが、篠原は売り出そうとする側の頭が固かったゆえに、メジャーになりきれなかった。アイドル歌手がまだ市場として成り立っているという誤った判断が、胸の大きめな美少女という篠原のポテンシャルを生かしきれなかった。
 また、篠原自身も芸能界で図太く生きようとしなかったから、ハウス食品のスナック菓子のCMぐらいしか代表作がなかった。歌も写真集も次作を残せなかった篠原と同様、彼女が出演した「こうばしコーン」も、「とんがりコーン」のような誰でも知っているメジャー商品になれぬまま終売となった。

U-18写真集の新陳代謝

 十八歳以下のグラビアアイドルが次々とデビューしていた頃は、自室に保管してある写真集の新陳代謝も激しかった。敷布団の下には常時、四、五冊を忍ばせていて、そのときの気分で素材を選んだ。時間が経てば飽きが生じ、古書店に買い取ってもらっては新しい写真集を買うための原資とする自転車操業が続いた。僕がこれまで手にした写真集の中で、最も保管期間が長かったのは、小倉優子の一作目「恋しくて優しくて」ではないだろうか。これが発売された二〇〇一年は、児童ポルノ法施行の余波が残っていたせいか、高校生世代の写真集があまり市場に出回らなかったので、僕の中で小倉が過大評価され、この年のオナペットはほぼ彼女一択だった。
 その後、彩文館出版ぶんか社アクアハウスなどが、まだマイナーの域に留まっている高校生世代のグラビアアイドルの写真集を次々と発売し、僕の知るところとなった。それ以前は「お菓子系」に活動領域が限られていたものの、ビジネスになると睨んだ芸能プロダクションが参入するようになって、契約したばかりの素人でも顔立ちがよかったり、胸が大きかったりすれば写真集が出せるようになった。
 高校生世代の市場拡大に寄与したのは、写真集に特化した出版社と新興の芸能プロダクションだが、一方で「お菓子系」からは後々まで語り継がれるような人気モデルが輩出されなくなり、勢力が衰えていった。素人っぽさが失われていくのに違和感を覚えながらも、徐々に露出過度になっていくグラビアアイドルの低年齢化の一消費者として、僕は「クリーム」に興味を失い、三千円近くする写真集を買い求めた。
 「お菓子系」出身のモデルが芸能界で大成するのが難しいように、高校生世代でデビューしたグラビアイドルの多くも写真集を出したきり、目立った活動を残せぬまま所属事務所との契約が打ち切られる。〇四年のオナペットの一人、大津あずさもそうではないだろうか。小柄ながらも胸はかなり大きく、一作目の写真集「AZUBALOON」は僕にとって実用的だったが、しょせん時間が経てば飽きてしまう存在にすぎなかった。大津のその後の芸能活動も、いくつかの映像作品を発表しただけだ。
 つまり、大津ほどの器量のモデルは、五、六年前なら「お菓子系」に留まって芸能活動に見切りをつけていたはずなのに、出版社と芸能プロダクション双方のビジネスの持ち駒として強引に写真集市場に担ぎ出された。割を食らったのは僕たち消費者で、これまで雑誌で済ませていたのに高価な写真集を買わざるを得なくなった。しかも、表紙は性的興奮をそそるのに中身はさっぱりという駄作にも付き合わされる羽目になった。
 とはいえ、僕は出版社に対して恨みつらみはなく、むしろ高校生世代の市場を拡げていったことを評価したい。市場が拡大しなければ、良質なオナペットに邂逅することができなかっただろうし、僕の自慰回数も右肩上がりで増えなかったはずだ。DVDの製作コスト低下によって出版件数を減らしていく直前までが、写真集市場のピークだったと言えよう。

メジャーになり損ねた逸材

 僕の二〇〇〇年代は、金曜日の夜になるたびに、仕事から帰るやすぐに郊外のセルビデオ店に向かって素材を探す日課が続いた。牛丼チェーン店やセルフサービスの定食店などで適当に夕食を済ませ、週末の食料品を買い込んでから自室に戻り、写真集やDVDを観賞しながら自慰に励む。それらは常に当たりはずれの連続で、当たりだったら何十回も繰り返し用いるが、はずれの際はいっぺん見ただけで古書店行きとなる。
 幸いにも、僕の行きつけだったセルビデオ店は新刊の写真集にもかかわらず定価の約四割引きで売られていて、よく重宝させてもらった。その後、転居を何度か繰り返し、自慰用の素材もインターネットによるダウンロードが主流となり、セルビデオ店に立ち寄る機会がめっきり減ってしまった。先日、僕が最も性欲旺盛だった〇四年ごろ足繁く通っていた店の近くを訪れてはみたものの、一軒は台湾料理店にテナントが代わり、もう一軒は店舗什器が雨ざらしという無残な状況だった。
 さて、年間最多自慰回数を記録した〇四年のコアとなったオナペットとしてもう一人、島本里沙を挙げたい。石井めぐる川村ゆきえの印象が強すぎて、うっかり島本の存在を忘れてしまいそうだったが、彼女もまた僕の股間を絶えず熱くさせてくれたロリ巨乳系の一人だ。この年まで写真集三作品を発表しているが、僕が購入したのを今でもはっきり覚えているのは彩文館出版から上梓された「RI‐CHA」だ。
 島本は十六歳でグラビアデビューし、ロリータフェイスには不釣り合いな胸の大きさに、僕はすっかり虜になった。胸の谷間をことさら強調したほか、石井や川村も着なかった眼帯ビキニのショットもあり、ソフトな着エロを堪能することができた。高校生世代が惜しげもなく際どい水着姿になり、僕はその写真集を観賞しながら性的な想像力を掻き立てて射精に導く。着衣姿だけでも興奮しそうなのに、惜しげもなく素肌を披露してくれるのだから、本当におおらかな時代だったと言えよう。
 島本は〇八年まで芸能活動を続けていたようだが、十九歳を境に写真集やDVDを発表しなくなった。それまでの作品の売れ行きが芳しくなかったのか、それとも本人がグラビアの仕事を続けることを嫌がったのか、今となっては知るよしもない。確かにまともな羞恥心の持ち主なら、素肌を晒し続け、不特定多数の男性たちの性的対象となり続けるのは耐え難いはずで、川村や原幹恵のような十年選手は極めてまれだ。
 当時は次から次へと十八歳以下のモデルが水着姿になり、週刊誌や漫画誌の巻頭を彩った。島本もその流れに乗りかかろうとしたが、マイナーからメジャーに昇格しきれないま現役を終えてしまった。そのせいか、〇四年のオナペットを振り返る中で、メジャーな素材ばかりに気を取られてしまい、不覚にも島本の存在を忘れそうになった。この場を借りて本人に謝罪したい。 

“制コレ”デビューの現在地

 二〇〇四年は、僕の人生で年間最多の自慰回数を記録した年だが、最もよく使わせてもらった石井めぐるでさえ全体の一割強にすぎず、素材をとっかえひっかえしながら回数を重ねていった。雨後の筍のごとく、彩文館出版などから十八歳以下のグラビアアイドルの写真集が発売された時代背景もあり、この年のコアとなったオナペットは、石井と川村ゆきえに加え、野崎亜里沙も挙げられる。
 僕が野崎を知ったのは漫画誌のオーディションで、そこでのお披露目から写真集を発表するまでのスパンが長かったのを覚えている。グランプリを受賞した紗栄子に一切性的興味が湧かなかったのは、グラビアでの露出が少なかったのと、オーディションを単なる踏み台とでしか思っていなさそうな成り上がり臭を無意識に嗅ぎ取り、卑屈なオナニストは彼女を素材に用いることを拒んだ。その代わり、準グランプリの福愛美に対しては思う存分性欲を発散させてもらった。
 福とほぼ似た体躯の野崎がいつ写真集を出してくれるか。僕はずっとその期待に股間を膨らまし続けていた。石井の一作目の写真集「Be―New―」で週末は一日四、五回の固め打ちが日課となっていた頃、野崎の写真集「Arisa」が遂に発売され、僕はセルビデオ店に駆け込んだ。当時、すでに福がオナペットの座から降りていたのも、野崎での自慰を捗らせた。
 野崎は翌年にも二作目「ハズカシイカタチ ナンデモアリサ」を発表し、早くも十八歳でグラビアから足を洗った。現在、ほとんどのモデルが十八歳を過ぎてからグラビアデビューするというのに、野崎はすでにほかの芸能活動に軸足を移していた。本人の意思か所属事務所の方針かは知らぬが、今と違って次から次へと十八歳以下のモデルが水着姿になってデビューする中、グラビアの仕事が瞬間的にしか稼げないとみなしたのだろう。その点では、野崎にとってもグラビアは芸能界を生きていくうえでの踏み台にすぎなかった。
 SNSなどによると、野崎は舞台女優としての仕事を長く続けていたそうだ。福と同様、紗栄子に大きく差をつけられてしまったが、それは彼女たちに芸能界で箔をつけるための図太さや強烈な自己顕示欲を養う能力を持ち得なかったからで、むしろそのほうが健全だと言える。高給取りのプロ野球選手や成り上がりの青年実業家に取り入るのは、紗栄子に天性の男転がしの術を持ち合わせていたからで、こんなのが町中に蔓延っていたら社会は著しくバランスを欠いてしまう。
 紗栄子の生き方に共感していたら、その人々は地に足をつけていない“ふわっと”した生き方に憧れているのかもしれない。常にパトロンを侍らせていそうなのは、それはそれで一種の才能だが、情報商材のような捉えどころのなさが紗栄子の芸能活動であって、少なからぬ支持を集めているのは時代の趨勢と言えよう。しがない男性たちのオナペットとして記憶に刻まれるよりも、現在進行形で公私の充実ぶりをアピールし続けるのを選んだ紗栄子をこれまで一度も素材に用いなかったことを、僕は誇りに思う。

最高傑作の写真集との邂逅

 僕が石井めぐるを初めて知ったのは、日比谷線の電車に乗ったときに偶然目にした中吊り広告だった。そのグラビアが掲載された写真週刊誌は買わなかったが、名前と顔はしっかり覚えたうえで、写真集の発売を心待ちにしていた。今ならDVDで名の売れたグラビアアイドルのみが写真集を上梓できる“特権”が与えられるが、二〇〇四年当時は写真集からのお披露目が一般的だった。
 僕が三十歳の節目を迎えたちょうどその頃に、石井の一作目の写真集「Be―New―」が行きつけのセルビデオ店で平積みされた。〇四年六月二十五日、ちょうど金曜日の夜だったと思う。自室に戻って早速自慰に勤しみ、射精した際の精液の量がいつもより多めだったのを、今でもはっきり覚えている。翌日、僕は美少女と巨乳の双方を兼ね備え、運動経験者だと思われる体脂肪率があまり高くなさそうな肢体をオナペットに、六度の射精を果たした。一日六回の自慰は後にも先にもその日だけだ。
 以来、翌年春頃まで石井の水着姿で自慰を続ける日々が続いた。〇四年の暮れに二作目「めぐるめぐる」、翌年春に三作目「海風」が発売され、僕はその都度股間を熱くしてきたが、洗練されて垢ぬけていくよりも、やはり一作目の初々しさと何も知らぬままの素肌の露出にはかなわず、自慰回数は二作目、三作目を大きく上回った。僕が今まで手にしてきた写真集の中で一、二を争う最高傑作といっても過言ではない。
 石井の芸能活動は実質五年間で、グラビアの媒体を写真集からDVDへと移した。その頃、僕はすでにほかの素材に夢中で石井への性的興味は失せていたが、新作を重ねるごとに露出度が減り、実用度が下がっているという悪評が漏れ伝わってきた。「Be―New―」と並行して制作されたデビュー作「Pure smile」には到底及ばないとのことで、ブレイクできるかどうかの大切な時期に、僕のようなオナニスト諸氏からの支持が得られず、引退まで中途半端な立ち位置で終わってしまった。
 ほぼ同時期にデビューし、グラビアの仕事に執着し続けていた川村ゆきえとは対照的だが、それは単に石井が芸能界での出世欲を持たなかっただけで、人前で水着姿になることへの恥じらいと馬鹿馬鹿しさを抱きつつ、所属事務所から与えられた仕事を淡々とこなしていたのではないだろうか。一見華やかに見えても、実際にデビューしてみたら“虚業”としての現実を実感し、自らの能力不足も相まって仕事が続けられなくなる。開き直って図太く生きようとするしたたかさも持ち合わせていなかったのだろう。
 それでも、僕は「Be―New―」をメーンに百八十回近く自慰と射精を繰り返した。歴代のオナペットの中でも屈指の高頻度で、性欲発散のピーク期だった三十歳の終生忘れ難い思い出だ。適当な女性と知り合う機会を探そうとせず、ひたすら十八歳未満のグラビアアイドルの写真集を買い求めていたことを、石井に巡り会えたことで決して後悔していない。

無事是名グラドル

 僕が三十歳になった二〇〇四年は、人生における性欲発散の絶頂期だった。結論から言うと、この年の自慰回数は七百六十二回(七百七十二回だったか?)と、一日平均に換算すると二回以上射精していたことになり、翌年からは減少に転じる。残業がなかったら、週末は自室に引きこもる“非リア充”生活の連続だったことに加え、良質のオナペットに数多く出会うことができたから、僕のペニスは勃起と射精を繰り返さずにはいられなくなった。
 この年のコアになったオナペットを時間の経過順で振り返ってみると、まず川村ゆきえが挙げられる。美少女と巨乳を兼ね備えた素材は滝沢乃南で経験済みだが、滝沢がぽっちゃり気味なのに対して、川村は佐藤寛子ほど体脂肪率は低くなさそうだが、運動経験者のような均整のとれたスタイルでデビューしたので、僕の執着度は滝沢を大きく上回った。川村の写真集が発売されれば、狂ったように自慰に勤しむだろうとわくわくしながら発表されたのが一作目の「17ans~ディセダン~」だった。
 つい最近までグラビア活動を続けていたのだから、川村のプロフェッショナル意識には感心するばかりだが、僕が彼女に夢中になったのはこの年だけだ。一作目と二作目の「1or8」はかなり使わせてもらったが、すでに川村が十八歳を過ぎていたのと、川村のような美少女と巨乳の両方の要素を併せ持った素材が次々と表れてくるので、僕にとって彼女は絶対的な存在にはならなかった。
 僕の中で、川村のグラビアは〇四年しか知らない。しかし、川村は結婚するまで人前で水着姿になって扇情的なポーズをとる仕事を続け、その映像作品が市中に出回って男性たちの自慰を捗らせた。川村と同じスタートラインで芸能界に入ったモデルは数多いが、そのほとんどは人知れず引退していく。一方で、文化人を気取ったり、大物芸能人に取り入って芸能界にしがみついていたりするのもいる。人前で素肌を晒し続けるのは、本人の徹底した自己管理が求められるわけで、僕は芸能活動の転換を図り、グラビア時代をなかったものとする連中よりも、川村のほうが潔さを感じるし、共感を覚える。
 三十歳を過ぎてもグラビアの仕事を続けていた川村も、芸能界で生き残るための図太さの経験値を高めたようで、それは今後も決して表に出ないほど生々しいことなのかもしれないが、かといって佐藤のように未婚の母を公言したり、杉原杏璃のように大手芸能プロダクションの一族に嫁いだりするような大胆不適さもない。バンドメンバーの妻になっても、芸能界引退を宣言したわけではないので、自身がまだ商品価値を発揮できる余地を残している。
 空白期間はあったものの、グラビア活動を十五年も続けられた川村は平成のレジェンド的存在であって、令和になっても四十代、五十代になっても人前で水着姿になって男性たちの劣情を掻き立てる。“終身グラビアアイドル”の称号を手に入れられるか。そんなファンタジーを、僕は期待している。