僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

忘れていたオナペット~原史奈編~

 一九九九年の児童ポルノ法施行で「お菓子系」雑誌が休刊に追い込まれたり、十八歳以上のモデルを掲載する一方で、大手出版社が発行する漫画誌では女子高校生のオーディションがさしたる影響もなく続いていた。両者にそんな差異はなく、後者でグランプリを受賞した金田美香が、前者では別名義で水着姿を披露していたのだから、今思うと、性的搾取のレッテルを貼られがちなAV業界や撮影会界隈とのかかわりを持ち、脛に傷を持っていそうな中小出版社が過剰反応のあまり、自ら育ててきたカテゴリーを「なかったもの」にしたのだと思えてならない。

       
 そのオーディションでグランプリを受賞したり、ファイナリストに残ったりしたグラビアアイドルの中には、金田のほかにも福愛美野崎亜里沙寺田有希ら本ブログですでに紹介したオナペットたちもいるが、不覚にも原史奈がいたのを忘れていた。僕は原の写真集を一作目の「days」から三作目の「PURE SWEET」を所持していたから、オナペットとして触れないわけにはいかない。写真集の発売時期から、〇〇年から翌〇一年にかけてお世話になったはずで、今になって思い出すとは痛恨の極みだ。


 原は細身の体躯の割には、胸の立体感が目立ち、僕はそのアンバランスに性的想像力を膨らませた。水着の布面積は大きめだが、ビキニブラ越しに伝わる胸の谷間に劣情が掻き立てられ、自慰を捗らせた。二作目の「ciel」だったか、無防備で仰向けになっている原の腋の下に毛の剃り跡がくっきり見えているのが印象的で、美少女度の高い原の表情と両胸の膨らみを交互に見比べながら性的興奮を最高潮に導かせていたのを思い出す。


 僕が原を自慰用素材に用いていたのは三作目の写真集までだ。成人になった原は着エロ・セクシー路線へと歩んでいったが、僕は次々とデビューしてくる高校生世代の新人を自慰対象とし、彼女にはもう性的興味が湧かなかった。しかし、原が元Jリーガーと結婚(後に離婚)するとの報道を知ったときは、かつてのオナペットたちが人知れず芸能界を去っていき、消息不明になっていることもあってか、頭の中がもやもやするほど複雑な気持ちだったのを覚えている。


 原はグラビア上がりの端役女優で終わると思いきや、NHKのバラエティ番組では劇団出身の個性派俳優とともにシリーズ通じて出演するほどの芸達者ぶりを見せた。僕がお世話になった幾多のオナペットとは違って、原がグラビアだけで終わらなかったのは、どうすれば先輩芸能人に気に入られるかという努力を怠らなかったからだろう。少ないチャンスをものにできるかどうかは、地頭の良さがなければ実現は難しく、原はグラビアアイドルからタレントへと進む椅子取りゲームの数少ない勝者と言えよう。

駆け引き知らずの少女たち

 僕は平成期のほとんどにおいて、グラビアアイドルの写真集やイメージビデオを自慰用の素材に用いてきた。ファンとしてではなくオナペットとして、ひたすら性欲発散のためにそれらを買い求めてきた自己嫌悪と背徳感から、本人と直接会える握手会やサイン会に足を運ぶのを憚った。だから、それらのイベントにどういう人たちが集まって、どのような空間を醸し出しているのかまったくわからない。


 年端もいかない少女が、大勢の大人たちの前で素肌を晒しながら笑顔を振りまくのは相当恥ずかしいはずだ。しかし、それがグラビアアイドルのスタンダートである以上、断れば干されるだけだ。彼女たちはメジャーになるための代償として、水着姿になるのを厭わず、また自分の作品が不特定多数の男性の自慰に使われることもわかったうえで仕事に臨んではみたものの、残念ながらそのほとんどは次のステージへ行けぬまま、人知れず去っていった。


 僕は主に高校生世代のグラビアアイドルにお世話になったが、彼女たちは果たしてグラビアから先の人生設計を立てていたのだろうか。プロダクションに籍を置いたばかりだから、自己主張もできずに社長やマネジャーの言われるがまま右から左へと仕事をこなしていただけではないか。女優やタレントになりたいと夢見ても、経営者側は次から次へと新人をデビューさせるので、セールスが芳しくないのに対しては見切りをつけるのも早かっただろう。


 デビュー時に歌唱力や演技力が要求されないので、プロダクションは器量とスタイルのよい少女を集めるだけでグラビアアイドルを市場に供給できる。半グレ集団のリーダー格が経営していた事例もあることから、女衒のようなモデルの調達能力が求められる。しかし、スカウトに長けていても、タレント育成が欠けていてはグラビアから先に進みたくても進められるはずもなく、少女たちはグラビアの仕事を続けていることに疑問を持ち、所属先から離れていく。


 また、無名のグラビアアイドルは、私生活においてはまだ一般人だ。芸能コースがある都内の高校に通うメジャー級と違って、彼女たちは地元の高校に通いながら芸能活動を両立しなければならず、周囲から好奇の目で見られることになる。保守的な土地柄であればあるほど、心ない人々から誹謗中傷を浴びせられたり、ストーカーまがいの嫌がらせを受けたりすることもあるはずで、それらに耐えきれずにグラビアの仕事を放擲してしまったのもいるだろう。


 グラビアアイドルという定義を確立させたのは、堀江しのぶかとうれいこを世に送り出した野田義治だと思われるが、彼の場合は芸能界での長い付き人経験があったからこそ、その人脈を駆使して新人をいきなりメジャーデビューさせることができた。しかし、二〇〇〇年以降、グラビアアイドルで一山当てようとするメディアもプロダクションも、野田のような敏腕さを欠いていたゆえに、育成ではなく即戦力に偏ってタレントを使い捨て同然で酷使していった。僕もその恩恵にあずかったわけだが、グラビア以外で名を残せなかったオナペットたちを振り返ると、もうちょっと大人との駆け引きができていたらと残念でならない。

メジャーへの高き壁

 僕がお世話になったオナペットのほとんどは、歌手や女優、タレントの肩書きを得られず、地上波のコンテンツでスポットライトを浴びることなく芸能界を去っていった。高橋由美子小倉優子磯山さやかなど数少ない例外はあるが、彼女たちもいきなりメジャーデビューの機会は与えられず、マイナーな版元での雑誌グラビアや写真集という下積みを重ねたうえで、芸能界でも広く知られるようになった。
 

 僕の場合、「大海賊」という当時のA5判アイドル雑誌の中でも「BOMB!」や「DUNK」に比べてマイナーっぽさ漂う媒体で高橋を知った経験から、学生時代は同じ英知出版の「すッぴん」を毎月チェックした。ただ、高校生の頃は「Momoco」や「Up to boy」といったメジャー誌も自慰用素材に用いるほどで、当時はまだメジャーとマイナーの線引きがなかった。
 

 僕がマイナー志向へと傾倒していったのは九〇年代後半の「お菓子系」との邂逅で、その頃からメジャーなアイドルを素材に用いることへの興味を失っていった。例えば、優香や小池栄子深田恭子ハロー!プロジェクトのメンバーなど、いずれも写真集を発表してそれなりの人気を博したが、僕は今日に至るまでそれらを一度も用いたことがない。社会人になったばかりの生活苦で写真集を買うほどの経済的余裕がなかったこともあるが、僕が求める自慰素材の基準は素人っぽさが残っているかどうかであり、ワンコインで買えるお菓子系雑誌で十分満足感が得られた。
 

 児童ポルノ法施行でお菓子系は一旦壊滅に追いやられたが、大手メディアによるグラビアアイドル囲い込みの流れは変わらず、僕はメジャーになりきれない素材を選んでは性欲を発散した。〇〇年代後半からはAKB48が台頭してくるが、メンバーが単体で水着姿を披露する媒体を目にしても、僕の性的興味は昂らなかった。言い換えれば、僕がオナペットとみなしたグラビアアイドルは年代を問わず、総じてメジャーへのハードルの高さを乗り越える技量がなかったと言えよう。
 

 アイドルの本分が歌手だった八〇年代までとは異なり、九〇年代以降はとりあえずグラビアでデビューさせてから女優やタレントを目指そうとする流れが続いているが、狭き門のオーディションで選ばれたメジャークラスはほんのわずかで、その他大勢はグラビアの下積みから成り上がっていくしかない。「女優になれるよ」などという大人たちの甘言に乗せられ、結局グラビアだけで何者にもなれなかったのは決して本人の自己責任だけではなく、各種メディアと芸能プロダクションの育成能力を欠いた商業主義にも原因がある。
 

 優香らメジャーからスタートした元グラビアアイドルは、今日でも芸能人として世間に広く知られているが、マイナー組のほとんどは僕のような性癖を持つ男性諸氏のオナペットで終わってしまった。勘違いしたファンによるストーカー行為に嫌気がさしたり、所属先とのギャランティーの取り分をめぐって紛糾したりして、芸能界への夢をあきらめてしまったのもいるだろう。グラビアデビューの垣根が低く、粗製乱造のシステムだったゆえに、マイナー組はグラビアで終わるべくして終わったのである。

忘れていたオナペット~原田由美子編~

 二〇〇一年と翌〇二年にお世話になったオナペットを振り返ると、小倉優子磯山さやか福愛美らの名前がすぐに挙がるが、決してそれらを用いての自慰回数が抜きん出ていたわけでもなく、その時々において二番手グループが僕の性欲発散を後押ししてくれた。最近紹介した小向美奈子山吹美奈斗橋本愛美、葉山恵里などがそれに相当するが、記憶を洗い出していくと再び何人かの名前が挙がってくる。
 

 〇一年十一月にデビュー作となる写真集「straight!」を発表した原田由美子もその一人だ。原田は当時十七歳で、高校生世代を好んで自慰対象にしている僕にとって、まさにど真ん中のストレートだった。本来なら同年を回顧したときに小倉と同様、真っ先に取り上げるべきだったのに、今になって原田の名前を思い出すとは痛恨の極みだ。二十年前の記憶を詳細に辿っていくことの難しさをひしひしと感じる。
 

 二十年以上前の写真集は水着の布面積が大きかったり、当時流行の髪型やメイクだったりと時代遅れの感が否めず、今日において著しく実用性に欠けるが、ヤフオク!で原田の写真集のサンプル画像を見ると、それがまったくないのに感心させられる。ビキニの布面積はやや大きめで、下腹部はすっぽり覆われているが、ブラ越しに見える胸の谷間と膨らみが、まだ幼さの残る表情とのアンバランスを際立たせ、胸元を二度見せずにはいられなくなる。僕がオナペットに求める健康的なエロチシズムが伝わってきて、手元にこの作品があったら早速自慰を始めてしまうだろう。
 

 翌年七月には二作目の写真集「Yummy」も発表され、キー局が企画するアイドルユニットの一人として活動するなど、高校生世代のグラビアアイドルとしてメジャーへの階段を登っていった。当時の僕も写真集二作品を迷わず購入し、どこにでもいそうな黒髪の映えたショートボブの少女の水着姿に性的興奮を高め、幾度となく勃起と射精を繰り返した。
 

 キー局のアイドルユニットの同期にはMEGUMIや木南晴夏がいたが、原田は彼女たちのように映画やドラマ、バラエティの道に進むことなく、人知れず芸能界を去っていった。芸能活動は高校卒業までと決めていたのか、所属プロダクションが見つけてきた仕事が不本意だったのか、それとも単に原田自身の素行が悪かったのか。当時はブログやSNSが普及していなかったので知るよしもないが、原田に替わる高校生世代のオナペット候補はいくらでも現れたので、僕は彼女が引退したかどうかなど気に留めなかった。
 

 僕がお世話になったオナペットの多くは、メジャー入りを果たせぬままグラビアだけで芸能活動を終えてしまった。一方で、グラビアを踏み台に地上波の番組でも顔を出すようになり、女優やタレントの肩書きを得たり、有名人と結婚したりするのもいる。グラビアから先の夢が叶わなかったモデルたちは、今やSNSなどで自らの現在地を発信することはもちろん、過去の芸能活動を振り返ろうともしない。原田もその一人で、僕がこのように自慰遍歴を綴るのは、かえって迷惑なのかもしれない。

忘れていたオナペット~葉山恵里編~

 二〇〇一年は小倉優子のデビュー写真集「恋しくて優しくて」でひたすら勃起と射精を繰り返していた記憶しか残っていないが、後で振り返ると小向美奈子山吹美奈斗らも性欲発散の受け皿として名を連ねていたから、決して“小倉一強”ではなかった。それは小倉が唯一無比のオナペットだったという黒歴史を幾分修正してくれるとともに、この年の自慰用素材の検証が不十分だったことを意味する。


 僕の場合、写真集やイメージビデオ一作品につき、十回前後で打ち止めになったのは基本的にオナペットとはみなさず、本ブログでも取り上げる気はない。各素材における自慰回数は〇二年から六年間、記録を続けていたが、転居を機にそのメモを処分してしまったので、あくまでも僕の記憶を辿りながら、おそらく十五回以上射精した素材を思い出していかざるを得ない。平成という約三十年間をもう一度回想したうえで、今まで紹介しきれなかったオナペットを挙げていくことになる。


 さて、〇一年は小向に山吹と二人の漏れがあったが、もう一人、葉山恵里にも散々性欲を発散させてくれたことに最近気づいた。葉山は深夜番組の企画としてアイドルを目指すグループの一人(ほかに国仲涼子もいた)で、アイドル写真集のカテゴリーリーダーとも言える彩文館出版からデビュー作「Eri2000/2001」も発表したが、それ以後は目立った活動もなく、僕の幾多のオナペット同様、メジャーになりきれずに芸能界から去っていった。


 唯一の作品はタイトル通り、〇〇年版と〇一年版の二冊一セットの構成になっている。どちらの年か忘れたが、僕は葉山のビキニ姿に妙に興奮し、頻繁にそのページで最高潮に導かせた。当時は児童ポルノ法施行の余波もあってか、高校生世代のグラビアアイドルの供給量が少なく、前に触れた山吹美奈斗と同様、葉山も二十歳前後でデビューしたが、僕はそうした事情を割り切ったうえで彼女たちを自慰用素材に用いた。


 それから約二十年の歳月を経て、あらためてヤフオク!などで出品されている葉山の画像を見ると、「どうしてこんなのにあんなに夢中になったのか」と懐かしさよりも訝しさが先立つ。表情も体躯も十人並みで、過度な露出があるわけでもない。体躯にかぎっては小倉と遜色ないが、高校生世代の彼女がまだポテンシャルを秘めているのに対し、葉山はすでに完成してしまっていて、グラビアアイドルとしての伸びしろが見込めなくなっている。


 つまり、そのときの僕は二十歳前後にしてまだ表情に幼さが残る素材は十分許容範囲だったわけで、山吹同様、葉山に対してもコンスタントに自慰回数を重ねていった。後に高校生世代が次々とグラビアデビューしていく風潮が高まると、葉山らはオナペットとしての役目を終え、使い古した写真集も古書店送りとなった。僕の記憶の中では、結構長く葉山の写真集を所持していたはずだが、所詮高校生世代の良質な素材が現れる前のつなぎにすぎなかった。

忘れていたオナペット~橋本愛美編~

 今でこそ「国民の愛人」などと性にあけすけなイメージでお茶の間でも広く知られている橋本マナミだが、彼女が橋本愛美として十六歳でデビューした当時は、大手芸能プロダクションに籍を置きながらもマイナー臭漂うB級グラビアアイドルにすぎなかった。僕も橋本にはお世話になったはずだが、当時のエース級だった小倉優子小向美奈子磯山さやか福愛美らに比べると格下的存在だとみなしていた。
 

 本稿を書くにあたり、僕は橋本の写真集を何作品購入したのか調べてみると、デビュー作の「Bun Bun Bum」から三作目の「夏、の、果、実、」まで、旧芸名での作品をすべて所持していたことが分かった。足かけ三年もコンスタントにお世話になっていたわけで、各年の自慰回数は突出していなかったものの、オナペットとみなさざるを得ない。三作目が発表されたのは二〇〇四年七月、石井めぐるの写真集「Be―New―」で狂ったように彼女を汚していた頃で、その合間に橋本でも自慰回数を重ねていたとは意外だ。


 写真集を三作品も所持していたのに、〇〇年代前半を振り返るうえですぐ名前が出てこなかったことについて、僕は反省しきりだ。しかし、先に挙げた同年代のグラビアアイドルに比べて記憶がおぼろげなのは、橋本で一日四、五回の固め打ちがなかったからで、自慰集中度の低さが今日まで彼女を素材に用いていたことを忘れさせていた。プロ野球の先発投手にたとえると、ローテーションの谷間のような存在で、中堅オナペットとして地味に僕の性欲を発散させてくれた。

 ヤフオク!などで三作品の表紙写真が見られ、僕自身確かに買ったことがあるが、どんな中身だったのかと自ら問うてみても、はっきり思い出せない。一学年上の磯山とデビュー時期がほぼ重なるが、彼女に比べて少女と成人の狭間特有のエロチシズムに欠ける仕上がりで、健康的な水着姿をひたすら見せられるだけでは運動部の夏合宿の一コマのようで、性的な感情移入が削がれてしまう。結局、新作が発売されるたびに性的興味を持つものの、主力級として名を連ねるには力不足で、所詮同時期のオナペットの箸休めにすぎなかった。


 また、セクシー路線へと舵を切った三作目はともかく、高校生世代だった頃の橋本の二作品は表情があまりにも大人びていて、ビール会社の販促ポスターのよう佇まいだったことも、僕の性的感情移入に二の足を踏ませた。十代の頃からキャンペーンガールレースクイーンの風格を漂わせていたことは後の芸能活動に大きく作用したが、僕にとって当時の橋本は年相応の訴求力に欠けていたので、積極的に汚すことを躊躇った。

   
 もっとも、高校生世代の少女と大人のアンバランスを売りにしたグラビアアイドルが人知れず引退していったのとは対照的に、橋本は二十代後半になってから急に注目され、不特定多数の男性諸氏のオナペットとして写真集やイメージビデオを発表し続けている。今や全国区で知られるほどに成り上がったが、僕の中では年齢不相応の表情と体躯にぎこちなさを感じた写真集の印象を今も引きずっている。

雑誌媒体の域に留まった逸材

 自慰用素材を見つけるうえで、漫画誌男性週刊誌に掲載されるグラビアには、いつも目を通していた。オナペットにかないそうなのがあったら、写真集やイメージビデオ(IV)がいつ発売されるのかのチェックを欠かさず、我慢できなければその雑誌を買って自慰にいそしむフライングも少なくなかった。


 雑誌のグラビアは素材探しの出発点で、めぼしいグラビアアイドルのデビュー作が発表されれば、それで何十回にもわたって自慰を繰り返すとともに、新たなオナペットを発掘すべく毎週発売される雑誌に目を通した。二十代から三十代前半にかけて、僕はビッグコミック系列四誌を購読していたが、あくまでも連載作品目当てで、一方、「これはいけるな」と思ったグラビアのためだけにヤングサンデーヤングマガジン男性週刊誌ならプレイボーイを不定期で購入していた。


 僕がお世話になったオナペットは、一部のお菓子系モデルを除いてほぼ全員が写真集かIVを発表している。単体の作品を出さなかったグラビアアイドル、つまり漫画誌や週刊誌のグラビアの域から出なかったモデルの中で、最も自慰回数が多かったのは、おそらく二〇〇一年四月にヤングサンデーの巻頭を飾った山吹美奈斗だと思う。


 山吹は当時の連載作品の登場人物と同姓同名の芸名で、いきなりメジャー級のデビューを果たした。当該号は山吹のほかにも酒井若菜片岡未来のグラビアも掲載されていたが、それらには目もくれず、胸の立体感が露わな彼女のビキニ姿でひたすら性欲の発散を繰り返した。表紙も含めて七、八ページだったにもかかわらず、ショートボブの髪型に素人っぽさを残したままのグラビアは衝撃的で、小倉優子小向美奈子と並んで〇一年の自慰戦線を賑わせてくれた。


 同年十月にもヤングサンデーの巻頭グラビアに登場し、僕はもちろんそれを堪能したが、デビューから半年過ぎたにもかかわらず写真集が発表されないことに欲求不満は溜まる一方で、それなら山吹より後にデビューして写真集も出しているモデルへの自慰依存度が高くなり、徐々に回数は減っていった。漫画誌の企画の域から出られなかったのは、マイナーでの経験を積まなかった山吹の力量不足だったのか、または所属プロダクションと小学館はじめ各出版社との間で折り合いがつかなかったのか、おそらく両方にあてはまると思う。


 山吹は後に鍵山由佳として大手レーベルから歌手デビューを果たすが、一作目のシングルを発表しただけで、それ以降の活動は知られていない。グラビアも歌手活動も業界大手の後ろ楯がありながら、どちらも中途半端で終わってしまったのは稀有な存在で、よほど運に恵まれていなかったのだろう。かつてお世話になった身としては、芸能界の水に馴染めなかった山吹が、現在一般人として日々健康に暮らしていることを祈るばかりだ。