僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

公衆トイレと個室ビデオ

 僕が書店で自慰用の素材を買って、自室に戻るまで我慢できずに公衆トイレで射精に至った初めてのオナペットは、当時十六歳の山田まりやだ。一九九六年夏、池袋の東武百貨店内にある旭屋書店で、山田のファースト写真集を買った僕はそのまま男性用トイレの個室に駆け込み、ランダムにページをめくりながらペニスをしごいた。池袋から僕の自室までは電車で三十分もかからないのに、それを制御できないほど当時の僕は山田の肢体に夢中になっていた。
 単身生活が長いので、公衆トイレでの自慰は数えるほどだ。一回目の転職の際、貯金のなかった僕は実家からの通勤を余儀なくされた。出戻りの身ゆえに、両親と同じ屋根の下でポルノグラフィを所持することがみっともないと感じ、自宅内での自慰行為を極力控えた。それでも、当時二十五歳の僕は性欲旺盛だったので、外出ついでに公衆トイレや個室ビデオで溜まっていた性欲を放出した。
 荻窪へラーメンを食べに行ったついでに、西友眞鍋かをりを素材に用いたり、地元の高速道路を運転したついでに、サービスエリアで井川遥を素材に用いたりと、週刊誌の数ページのグラビアで僕のペニスはたちまち屹立し、自慰をはかどらせた。児童ポルノ法施行直後だったので、十八歳以上で我慢せざるを得なかったが、それでもまだ十六歳だった宮地真緒が少年誌のグラビアでデビューし、自宅内にそれを隠し持つほど何度も素材に用いた。
 個室ビデオは、日本橋のとらやの隣にあった店を繰り返し利用させてもらった。実家で自慰できないストレスを溜め込んだ僕は、中途採用の一年目でありながら、職場のホワイトボードに適当な行き先を記入しては個室ビデオに飛び込み、九十分か百二十分かの利用時間内で素材をとっかえひっかえしながら四、五回射精した。短時間で何度も射精に導けるほど、あの時の僕は素材さえあれば何でもよかった。
 半年ほどの実家暮らしを経て、僕は再び単身生活を始めた。しかし、その頃誰をよく利用させてもらったのかほとんど覚えていない。性欲が盛んだったから、実家での自慰行為は家族の留守を見計らってこっそりしていた。宮地のグラビアと「お菓子系」出身の佐藤えつこの写真集は、自室の机に鍵をかけて保管していたのを記憶しているが、彼女たちを歴代のオナペットと比較するとインパクトに欠ける。
 児童ポルノ法施行で「お菓子系」が着エロ・ヌード路線へ転向する一方で、少年誌で宮地の水着姿が平気で掲載されるという事態に、僕は釈然としなかった。そして、眞鍋や井川もメジャータレントになるのを機に性的興味は薄れていった。僕の記念すべき公衆トイレでの初めての自慰素材となる山田も、グラビアの仕事を踏み台に地上波での露出が増えていった。
 本来なら「お菓子系」のようなアングラ媒体からスタートし、そこで終わってもよかったモデルが、芸能プロダクションに囲い込まれ、マスメディアに売り込むことでメジャーへの道も開ける。ただ、それはデビュー当初から垢抜けた画一的なモデルばかりで、僕は素材として用いることに拒否反応を示してしまう。それだけ僕のマイナー志向は本物なのだ。